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落書き

クラウディオ・アラウという謎

 アラウとは何者なのかわからない。神童と聴けばアシュケナージバレンボイムのような巧みな小物を想像するし、巨匠と聴けばあるいはホロヴィッツバックハウスのような”図太い”ピアノ、あるいはコルトーやケンプのような独自のピアノ、あるいはリヒテルミケランジェリのような完璧無比なピアノを想像するが、アラウはそのどれでもない。図太さ、独自性、卓越した技術、そして偉大なスケールを感じさせながら、弾くものの顔を想像させないような無銘性、客観性をまた備えている。あるいはグルダに似ているかもしれないが、グルダはピアノを聴けば顔が想像できる。アラウはよくわからない。あらゆるピアニストは一貫して自分のスタイルを聴かせるが、アラウの演奏では通した一曲の中に、芳醇なロマンティシズムを感じさせる部分もあれば、驚くほど硬質で抑制的な部分もある。一貫しているのは主観的にならないということだけ。多くの評で地味だとか質実剛健だとか渋い演奏だと聴くが、アラウの演奏がそんな演奏でないことは明らかだ。客観的だが、グルダリヒテルのような無機的な演奏ではない。客観的で有機的。それでいて顔がない。この底知れなさ。どんな曲にもスタンダード、あるいは規範となるような演奏があるが、アラウの演奏はどんな曲においても規範にも基準にもならない。巧くて外さないのに妙な独自色、説明不能の危うさが抜けないのである。聴いていて不安になる、予測のつかなさ。僕にはアラウが好きだとかアラウの演奏が好きだなどとは到底言えない。聴いていて恐ろしくなる。この人のシューベルトベートーヴェン、そして何よりブラームスは変えが効かない。なにか、宇宙的である。ジュリーニとアラウが組んだブラームスの二つのピアノ協奏曲。暗黒の宇宙である。ジュリーニも同じ性質の音楽家なのである。それは渋いだとか華麗だとか洒脱だとか枯淡だとかそんな言葉で表現すべきではない特質なのである。どこから攻撃が飛んでくるか分からない対手なのである。先に挙げたように表現するものは感情が出てきそうでなかなか出てこないから渋いなどと表現したのだろうが、そんなスレた理由で感情が出てこないのではないということが、演奏をよく聴けば分かる。アラウ。モーツァルトピアノソナタも全曲録音しているが、僕はそれは嫌いだ。モーツァルトの演奏としてはあまりに恣意的なのだ。それはグールドが一見自分勝手に演奏しながら、その優雅さにおいて曲を救っているのと真逆だ。アラウの闊達さはベートーヴェンブラームスでさえも食ってしまうが、かえってモーツァルトに食われる。本性の図太い演奏家はアラウでさえも、モーツァルトを演奏しえない。